大学2年 2学期 (2019/03 ~ 2019/06)

お知らせ

 

大学2年 2学期 (2019/03 ~ 2019/06)

大学2年生 2学期はなかなかよいプログラムの満足度を上げるための足場をひたすら作るための期間だ。このプログラムは交換留学生として約6ヶ月間フィリピンの大学で英語を学ぶというものだ。英語を長期で集中的に学べる上に、休暇にもなる素晴らしいプランだ。大学2年生 2学期は英語の学習の期待値を上げるために英語をひたすら勉強した。

 

授業

Business English Conversation
-> ビジネス関連の実用的な英語を学んだ。TOEICのようなもの。

Counseling Psychology
-> 心理士になるのに必要な基礎的な知識と志を学んだ授業。人の相談に対して傾聴をする方法、不適切な行動等を学ぶことができたため人と話す時に、その人が何を伝えたいのかについてより観察し考えられるようになった。

English Grammar
-> 英文法についての授業。教授が精神論者でみっちり詳細に英文法について講義してくれたので、単語のイメージをしやすく覚えやすかった。個人的に一番英語力向上に貢献したと思う。

English Reading
-> 英語の単語と文章をただひたすら学んだ。正直とらなくともよかった教科。いわゆる楽単。

EnglishCommunication I
-> 簡単な英語でコミュニケーションをするための授業。

Intercultural Communication
-> 実用的な英語を使用するための授業。今までと違って学生同士で課題を解いたりプレゼンを作ったりして充実感はあった。

Psychology of Learning
-> 行動と認知心理学を混ぜたような心理学。心理学の分野の中でもっとも関心があり一番勉強した教科。人の習慣や思考が始まった原因やそれらを持たせるための計画を学ぶことができ友人で実験したところ教科書通りで初めて心理学的な技術が身についたと実感した教科。

 

部屋メン(大学 2年 2学期)

この学期は南アメリカのメンバーと共に生活することになった。

1人目は、地毛金髪のゲーマーブラジル人
2人目は、サッカーと塩の小顔のパラグアイ人
3人目は、ワカメ裸族脳筋菌

ここで一学期通して分かったのは友人としては南アメリカの人たちは良いのだが、共同生活をするには絶対ごめんということだ。自分の性格と南アメリカのノリが合わないとは思わなかったが、これもこれで自身について知ることができた経験として良かったと思っている。

 

交換留学プログラム参加審査と集会

フィリピンの6ヶ月間の交換留学のプログラムのためにリゾートバイトで身を粉にして働き、いざ申請をしてみると注意事項欄に選抜制と書かれており、応募した全員が行けるわけではないと書いてあることを発見した。それはそうだろう理性で理解する反面内心ビビっていた。よく項目を確認しなかった自分の情報収集力のせいだと理解しているが、このプログラムのために働いたためそればパーになってはやるせない。どうやらそのプログラムに参加するには面接を突破する必要があるらしい。採用人数は10人と案外枠があるようだ。面接で何を聞かれるかはわからないが、それなりの動機と現地で何をするか具体化し原稿に納め、大枠のストーリーを組んだ。この手のものは当時饒舌で理詰めの習慣があった自分にとって朝飯前だ。

当日面接会場に到着し、プログラム参加候補者を見てみると案外参加希望者がいてびっくりした。大体20人ぐらいであろうか。つまりこの中の約半分は落ちるということを考えたのだが、自信があったため落ちる気がしなかった。私の面接の順番は10番目でちょうど中間になった。自分の面接が始まるまで、大筋のストーリーを話すイメージをしたり、面接が終わった人の表情やドアから見えた面接官の顔を見たりして時間を潰したりして自分の番が訪れた。

失礼しますとドアを開け誠実さをアピールしつつ中に入り、面接官の顔を拝見。面接官は3人おり、左から気が強そうな女性、イギリス人の英語学科の学科長、カナダに移民の顔見知りの教授がいた。学科長や教授とは面識があり話もしたことがあるため完全なアウエーではなかった。最初の質問は自己紹介とこのプログラムに参加する動機だった。あらかじめ想定された質問であったためスラスラと答えられた。と2問目の質問に移るのだが、学科長が英語で本プログラムに参加して、それを将来どのように活かすか英語で答えてくださいと軽い笑みを浮かべんら尋ねてきた。” あ、これ試されてるんじゃね ” と頭に電流が走った。前日に偶然このプログラムに参加した先輩から面接はどのような感じで進行されたかをあらかじめ聞いていた自分は “ 韓国語で質問をされるが、英語で質問される人もいる。英語で質問に答えるときは流暢に答えてもいけないし、できなすぎてもいけない ” という情報を掴んでいた。不穏な笑みを浮かべる面接官3人に、私も心の中では同じレベルの笑みを浮かべながら簡単でつたない風の英語で答えた。無事全ての面接を終え、部屋を出た自分は勝ったと思った。自分が想定していた質問と状況が8割ぐらい一致しており緊張をほとんど感じず、また前回のスピーチ大会を反省してできるだけ傲慢さよりも謙虚さを前面に出しかつ発展途上の英語で話しつつだが質問の理にかなった簡単な英語で答え、その英語力向上性の潜在性をそれとなく伝えることができたと感じた。事前に情報収集とリハーサルをした甲斐があったというものだ。

結果は面接終了後1週間以内にメールでくると通過され、学業やら Bibim powerやら言語を教えるバイトをして5日目に面接通過の案内が来た。結果は通過。まあ当然っちゃ当然かもしれないが傲慢さが出てきたので私を選んでくれて、誠にありがとうございますと謙虚さを込めた感想で脳内で述べた。その後通過したメンツで集会なるお見立て会があるそうなので、共に交換留学に行く仲間がどんな感じなのか気になったため、集会参加は任意であったが参加することにした。集会当日集まったメンバーは12人。6人は男、6人は女。全員参加したらしい。全員見たことのない顔でメンバーの半分は異国の方が参加していた。後で聞いた話だったが全員潜在性があり、英語学習に対して熱意があり選抜は悩んだのだが、決め手は現地で何をするかについて具体的に答えられた順で選んだと言われ、心の中でやったとガッツポーズ。小一時間それとない自己紹介をして集会が終わると同時に、来学期来る交換留学に胸を踊らせながらフィリピンの方向に体を向け、ご飯はおいしくないんだろうな~と思いながら学業の渦に戻っていった。

 

まとめ

大学2年生の2学期は1学期と比べほぼ同じで交換留学ぐらいしか語るイベントがない。ストレスを感じる寄宿舎に、言語を教えるバイト、心理学と英語学習、Bibim power等々である。今学期は言語学習に焦点をおいて過ごしたためエピソードトークはあまりできないが、その集大成的なものを記事でまとめてあるのでご興味があれば下記のリンクから飛んで、覗いていってください !!

 

夏休み (2019/07 ~ 2019/08)

大学2年生の2学期を無事に終え、1ヶ月後にフィリピンに向かうことになった。というのもフィリピンの交換留学の前に英語研修のプログラムを申請したからだ。ほかの交換留学よりも一足先にフィリピンに行き、交換留学期間に英語力向上の底上げをする計画だった。韓国からフィリピンへ行くのに荷造りをし、次の日仁川空港に向かった。そこで一つミスをした。ウォンを米ドルに変えることを忘れたのだ。当時のレートではウォン -> ペソと変えたらかなり損をする反面米ドル -> ペソであれば等倍以上のレートで交換が可能であったため、この後5000円ぐらい損をすることになった。頭でレート計算をし少しばかり悔しい気持ちになったが、来学期はアメリカの大学院進学のため念願であった長期的に英語学習に取り込めることとフィリピンの大自然で精神衛生面の療養ができるため胸に期待を抱きながらいざフィリピンに向かった。

フィリピンの空港で感じたのは湿気がすごくまた暑いことだった。赤道に近いこともあり暑い国であるとわかっていたのだがこれは日本よりも過ごしにくいと感じた。また空港にゴツいショットガンを携えたゴツいサングラス警官を見たとき異国にきたとヒシヒシと感じた。

空港に到着後、語学院行きのバスが待機していた。バスに乗り込み2時間揺られた後、到着。到着後の感想として自然がまわりに多くあり、寄宿舎内にアヒルが歩いていたのがなんとも印象的だった。この場所についてはInstagramに画像をアップしているのそれで確認できます。ご関心があったら登録して確認お願いします!

韓国から飛行機でフィリピンに行き、自動車に揺られたため体力的に負担がかかることに配慮をおいた計画から当日は軽い施設の説明を受けてその日は各自解散になり自由時間になった。その日は疲れ、また夜になっていたため秒でベットに入り寝た。

 

天気

その次の日、授業はなくフィリピンで生活するにおいて生活用品の確保のためフィリピンの大型スーパーに行った。銅壁で囲まれた寄宿舎から出るとバスではなく、トライシクルが5台エンジンを蒸していた。トライシクルとはバイク + 最大5人 ~ 6人くらい乗れる搭乗スペースがある発展国ではまず見ることができない乗り物だ。ちなみ料金は交渉制でその場の相場を知らなければぼったくられるためうまく交渉する必要がある。またフィリピンはスコール(熱帯特有の、にわか雨をともなった疾風。)が多くあり天気が不安定であり晴れていると思ったら短期的に豪雨が降り始めることは日常茶飯事だった。スーパーに向かう途中でもスコールにあった。20分ぐらいしてスーパーに到着したのだが、なにやら行列が出来ており何事かと確認したところ、大型スーパーに入る前に金属探知機を使ったボディチェックが行われていた。フィリピンでは強盗というのはよくあることらしくまた、大型スーパーは格好の獲物のためチェックしているそうだ。大型スーパーの門前にゴツい警官がおり、またスーパー内に警官が巡回しており目を光らせていた。スーパーに到着したのは良かったが、自分は特に必要な購入品はなかったため日本で飲むことのできない溶かすとジュースになる粉と初めて見るカップラーメンを購入した。無事買い物が終わりトライシクルに乗って寄宿舎に到着し特にやることがなかったので英単語帳を眺めてその日は終わった。

 

食事と授業

その次の日に授業が始まるのだがまずは腹ごしらえだ。朝食と昼食のお金は払っていたので食堂に行ったところ、まず食堂が食堂に見えない小さな部屋で運営されていたこと、米がタイ米のようなものパサパサしており大変おいしくなかったこと(たまに虫が入っていた)、味があまりしない主食によくわからんサラダ等総合的に食事関してAmazonのような評価をするのであれば星1つである。本当に美味しくなったが、韓国から来た研修生曰く痩せることができるため許容できたとのこと。事象を認知しそれを肯定的に認識、評価をすることができる人間はやはり強い。

当日の最初の授業の時間を使いレベルテストがあった。英語研修に来た人たちの英語力を確認し適切なクラスに分配するためだ。自分は英語のベースをかなり学生時代に築いてきたためか最上級のクラスで授業を受けることになった。ここで授業を受ける場所についてだが、大学(Tarlac State University)側が語学院を所有しており、その在学生がアルバイトとして英語受講者に教えるという風になっていた。授業は1日6時間(1時限 55分, 授業ごとに先生が入れ替わる。)であり文法の授業が一つだけあったが、基本的に1対1のコミュニケーションをベースとした授業であった。その1対1の授業は大学生が請け負っていたのだが、英語力に幅がありかなり流暢に話す学生もいればあまり得意でない学生もおりその点は不満を感じたが、格安で英語を勉強できる点と第二言語が英語のためコミュニケーションをとれるぐらいは英語ができたので及第点といったところである。ちなみにフィリピンのような第二言語が英語の国で英語を学んで良いのかという質問をよく聞くのだが、英語初心者または中級者までであればおすすめしている。上級者であればしっかりと英語が母国である国で学んだり、facebookでネイティブと友人を作って電話をして伸ばしたり、TOEFLを勉強した方が良い。フィリピン英語は植民地の歴史が長く、その統治国も入れ替わりが多かったためスペイン語の影響を受けたタガログ語が母国語になっている。つまり彼らの話す英語はスペイン語なまりで入っており、ネイティブが話すイントネーションとは少し違う。イントネーションは世界ごとに多少違いがあるため英語の基礎を作るという目的で行けばその目的は十分に達せられるだろう。

 

フィリピンとフィリピン人について

フィリピンの大学生に対して印象を書くと、誠実でありマニュアルベースの伝統的な日本人といった印象を受けた。英語の授業は基本的に教科書ベースであり、自分が教科書よりもグローバル問題や平和には何が必要なのか、学問が志向すべき方向性等の真面目な会話がしたいと言ってみたところ、事務所の確認しにいくという日本人のような性質が見えてすこしばかり好感を持った。やはりアジア圏はそのような性質を持ちやすのかだろうか。事務所から許可をもらい、授業の時間は1つのトピックに対して意見交換や討論をすることにした。5時間は討論ばかりしたためスピーキング力とリスニング力の劇的な底上げをすることができた。

 

容姿と性格

ここでフィリピンの大学生と交流した話や授業で得たフィリピンに関する知識等を書き記していく。フィリピンの大学生は基本的に色黒で肌が綺麗だ。その理由はフィリピンが熱帯であり湿度が高いため汗が出る。そのジメジメが嫌だとか暑いからという理由で冷水のシャワーをよく浴びる。老廃物が体内から汗として放出され、水で体を清めるため肌管理をしなくとも良いそうだ。また全体的に目が大きい。これはよく聞く話だが赤道に近ければ近いほど体内温度を冷やすため自然と水分を放出する器官が大きくなるかららしい。そして身長は日本人とあまり変わらない。これは統計的な情報を吟味していないため体感になるが栄養の摂取量や魚を主食に食べる島国民族などの理由から推察できる。顔はアジアだったり、アメリカっぽい顔立ちの人が多かった。これを歴史が絡んでくる話であるが、フィリピンの歴史は植民地の歴史でありその直民地時代に多くの異種交配がなされたことから様々な国の遺伝子を持った子供が産まれ、またその子供たちが成長し異種交配しの繰り返しで混ざったらしい。顔は端正で男はイケメン、女であれば美人と形容できるだろう。性格はまちまちであるが共通して言えるのが陽気でおおらかなであった。

 

宗教

授業を通して興味深い内容がいくつかあったのだが、その中でもフィリピン人の約半数がカトリック教徒であり、またフィリピン自体の法律も聖書をベースに作られているそうだ。特に印象的だったのは大学校内でぶらぶらしている時にある短い音楽が流れてきてそれが終わるとタガログ語で祈りの文が流れて来た。周囲を確認するとさっきまで歩いていた大学生や遊んでいた小学生までもが立ち止まり祈祷(黙祷?)をしており、その放送が終わりアーメンと言い終わると周りの人たちが動きが出す。祈祷中の時間はまるで自分だけが取り残されたような感覚に陥った。このような経験は無宗教が大多数の日本にいてはまずできない。このことを聞いたら一種のしきたりのようなものでイスラム教のサラート(カアバ神殿の方角へ向かって祈る。よくテレビで見るある一定の方角に対して敬拝するやつ。)のようなやつらしい。

 

結婚

結婚に対してももちろん宗教的思想が反映されていた。一度結婚したら離婚ができないそうだ。そもそも離婚をするという選択肢がフィリピンの法律にないのだ。なので相手はよく選んで決めるそうだ(仮に相手選びを失敗しても不倫をしている方も多いそうだ。)。犯罪に関しても興味深く未成年をレイプしたら終身刑が確定するそうだ。どうやら性問題に対しての罪の言及が重い国らしい。性の話で言ったら、フィリピンはびっくりするくらいゲイが多い。レズはわからないがゲイはそこらじゅうにおり、6ヶ月間の交換留学と交流から一目でゲイを識別できるようになった(フィリピンのゲイは女性的な仕草が多く、また纏っている雰囲気や言葉遣いが女性に近い。)。

 

大統領

フィリピンの大統領について大学生に尋ねたところ全員当時の大統領(ロドリゴ・ドゥテルテ)を称賛していた。なんでも就任前は犯罪組織や海賊などの麻薬などの流通が盛んに行われており薬物の流通や犯罪などが横行していたが、就任以降激減したそうだ。またフィリピンは島国であり植民地の影響から言語がばらばらであり各島の連携が取りにくかったところを円滑にしたとのことだった。教育に関しても前向きな姿勢でフィリピン人は幼稚園から大学まで公立であれば授業料が無料なのだが、私立大学に進学したい場合(私立は多少お金がかかる)は全額ではないにしろ支援をする政策を打ち出したようだ。

 

スラム街

フィリピンで経験した衝撃的な経験を上げるとしたらスラム街訪問だ。大統領が薬物の流通を抑えたとしても量が減っただけで依然それが社会問題になっているそうだ。フィリピンに来てガリ勉をすると決めていた自分は海を見るなり観光する予定はなかった(そもそも学業 > x となっていることが多いので基本的に学業の方を優先する。)。海や観光は日本や韓国であればできると考えるためそこまで行く労力や時間を考えたら行く気にならないのである。だが日本や韓国で体験できないことに関してはフットワークは軽くなる。経験できないことを経験できることは人生において人や事象に関して思考するのに役に立つことが多いからだ。この場合はスラム街にあたる。日本や韓国にもスラム街はないが、フィリピンにはあるためそれが大きな価値にあたるのだ。フィリピン大学生にスラム街が近くにあるか聞いたところあるにはあるが立ち入らない方が良いと忠告された。なぜだろう。それを聞いた途端必ず行くという決心が固まった。ひと昔であれば職業 “冒険家” だったかもしれない。そこに立ち寄らないように注意するから場所を教えてほしいとGoogle mapを開き場所をマッピングし、いざ休日に行こうとその時はウキウキしながら、まるで幼少期に誕生日プレゼントをもらい中に何が入っているのかドキドキしながらその日が来るのを待った。

休日が訪れいざスラム街に出発したかったのだが、おそらく夕方くらいに訪問した方が面白いものが見れそうだと考えた私はその高まる期待を抑えて、夕方まで寄宿舎で待機した。すぐに時が過ぎ夕方になったのでスラム街に向かう。途中外出前にどこに何時までに帰るのかを記載する必要があったのだが、もちろん虚偽の申請をするのだが門限的に考えて3時間で戻ってこなければいけなかったためタイムリミットの勝負になると考えた。門を出てトライシクルを捕まえ、スラム街の名前を告げると運転手から行かない方が良いと言われた。友人がそこにいると嘘をついたのだが、それでも否定されたので別のトライシクルを呼び、スラム街に行きたいと言ったところこちらも行かない方が良いと忠告してきたので、しぶしぶ了承して近くまでならという条件で乗せてもらえた。なんとも親切なフィリピンの助言に対して嘘をいうことは少しばかり心にきたが、原住民も行きたがらない場所とはどんなところなのかさらに期待感が高めながら、また反対に不安感を感じながらあれこれと考えるうちにスラム街に到着した。

スラム街に到着した最初の感想は、廃れてはいるが人は住めるという感じだった。家の大きさはまちまちな感じで人が住めないまでではないが、個人的には住みたくはない。道路は舗装されておらず地面剥き出しで、周りの家の外壁は良い言い方をしたら質素、悪い言い方をしたら薄汚い。見た感じは集合住宅で人口密度が高そうな感じと外に薄汚れた半袖短パンの子供たちがワイワイ遊んでいる風景が広がっている。大きな一直線の道路を中心に小さな横道が不定期的に広がっており横道を尋ねて歩いて行こうと考えたのだが1歩踏み出した途端、なんとなくこれ以上は進んではいけないとビビり、大きいな一本道を進んでスラム街を探索しようと考えた。よく映画とかで裏路地とか小道とかに入り引き返せないぐらいの距離を行くとナイフやら銃やらで脅され後ろから頭を凶器で強打され、そのまま人身売買されてさよなら人生のようなシーンをよく見たことがあるので、それに警戒しての決断だ(犯罪率が高いマニラからそう遠くないので、実際ありそうで怖い)。

というわけでまず大通りを歩いていると遊んでいた子供たちがすぐさま駆け寄ってきてmoney, Chineseとたかって来た。物乞いは人生でされたことがなかったのでちょっとビビった。お金がないことを伝え中国人ではなく日本人であるという旨を伝えた。そんなの関係ないというばかりにmoney, moneyと言い寄られ服を掴まれ始めたのだが、sorryと言って優しく振り解き、大通りを進もうとしたら横の小さな家から赤ちゃんを抱えた痩せこけたおばあちゃんが片手を差し出して来てタガログ語で何かを言いながら擦り寄ってくる。おそらく金を要求しているのだろうが、英語で言ってもらわないとわからない上に、赤ちゃんを見せていて同情を誘おうとしてもないものは出せない。帰りの運賃程度しかもって来ていないのでそれを渡すこともできないし、スマートフォンのような電子機器も盗まれたりされても困るので持ってきていなかった。金目になるものとしたら上下ユニクロの半袖と短パンぐらいしかないがそれも渡せない。まさに手ぶらのすっからかんに近い状態だった。ズボンのポケットを裏返しにしてお金がないアピールをしても(ちなみに盗難防止のためにお金はサンダルの中に入れていた)、言い寄ってくるので無視しながら歩き続けた。その態度が気に障ったのか物乞いの口調から罵声のような口調に変わった。タガログ語で何を言っているのかは理解していないがなんとなく命の危険を感じた。なぜならその子供たちの声に反応して家から大通りを覗く人が出て来たり、痩せこけた目つきの鋭い男が2人ぐらい出て来たからだ。このまま囲まれてリンチにでもされるのではないかとビビった自分は来た道を秒で引き返してしまった。

なんとかスラム街から距離をおいて誰もついて来ていないことを確認し安堵しながらそれと同時に焦りを感じていた。というのはただビビって帰ってしまっては日本や韓国に帰り友人に土産話をするには尺が短すぎるから。そんなことを思った自分はこれでは帰れないと思い、先ほどの大路地から大回りし他の道を探して入ることにした。新たに中路地くらいの幅の道を見つけたのと雰囲気が先ほどの道よりも暗かったため怖かったが、ネタのため引くに引けない自分は入りたくはなかったが決心して路地に入った。先ほどとは打って変わって子供たちもいなければ人気もそれほど感じない。収穫なしかと思いながら50mくらい歩くとふと10m先から老人が歩いて来た。身なりは上半裸にボロボロの短パンでスリッパを履いており肌は色黒である。一見普通に見える身なりであるがその老人は少し異常だった。というのも髪の毛は手入れや洗っているのかもわからないモジャモジャ具合にインド人を思わせる長髭で目に力がなくまた焦点も合っていない上に、両腕には引っ掻き傷と円状の充血を起こした注射後のようなものがあった。その異様な腕の傷はおそらくなにかしらの薬を体内に注射しているのだろうと想起できるほど明白であった。そう思いながら顔を見た拍子に目があった。体感でその時間およそ3秒ほどではあるが、自分にはそれ以上見られたような感覚に陥ってことを今でも記憶している。すれ違いざまに目線がはずれたが、後ろを振り向くとあちらも振り向いており、それでまた目が合いドキりとした。そして100mも歩かずすぐに引き返すことにした。それは怖くなったからではない。スラム街にはスラム街に住む人の生活がありそれをネタにしようと思った自分に良心の呵責のようなものを覚えたことと自分はこの場所では場違い過ぎてなんとなく居心地が悪くなったからだ。そそくさとスラム街から出てトライシクルを探して帰ろうとしたのだが、せっかく出たのでもう少し探索することにした。1km弱ぐらい歩くと近くにフィリピンの商店街のようなものがあったので、入ってみることにした。

 

商店街

商店街の雰囲気はスラム街よりは明るくなにより活気があった。現地独特の匂いを感じながら商店街を歩く。多くの店があるのだが食べ物を売っている店もあれば、服を売っている店や小道具を売っている店と色々あった。運動用の長ズボンは使い古しており買い換えたいと考えていたので、ナイキを売っている露店で商品を見ていたのだがびっくりするぐらい安い。フィリピンは物価が安いと聞いていたが、日本で購入する1/3で購入できる金額である。怪しいと思いタグを見てみるといわゆる偽ブランドに相当する商品だった。なるほどなるほどである。偽ブランドでもよかったのだが現金を多く持っていなかったため、商品を戻してまた別の店へと歩いているとまたまた日本では見れないものを見た。その店は鶏を売っておりその周りで子供たちが遊んでいたのだが、注文が入ると母親らしき人物が子供たちに向かって何かを言った後、その子供の中の1人が立ち上がりケージに入った鶏を取り出しその頭を自分の傍にセットしぽきりと首をおりそれを母親らしき人に渡していた。その後は鶏の首を切って血抜きをしたあとそのまま首無し鶏を渡していた。真夏の炎天下で下に氷も引かないで魚を売っている店よりも衝撃的だった。大体7歳ぐらいの子がなんも躊躇もなく鶏の首を折る姿は日本ではまず見れない光景だろう。いいネタができたなとルンルンして歩いていたらまたまた物乞いに捕まりお金をせがんで来た。この時点でかなり精神的にも肉体的にも疲れていた自分は完全無視決め込んで、そそくさとトライシクルを探し速攻で寄宿舎に帰った。門限ギリギリで帰ることができ寄宿舎に帰りすぐにシャワーを浴びベットに入りその日を終えた。

 

ボラカイ島

フィリピン旅行したことがある人はみな口を揃えて海が綺麗だったと言う。聞き慣れたフレーズだ。フィリピンの観光地と言えば、白い砂浜に青い空が一面に広がっているセブ島のような場所が有名だろう。自分はそのような観光スポットはあまり好きではない。白い砂浜に青い空というのは見てみたいが、観光客が非常に多く日本語や韓国語が聞こえてしまってはそれだけで場所の価値が半減する。だがフィリピンに来て海を一回も拝まずに帰るとなれば、土産話以前に頑固者と思われてしまうだろう。なので白い砂浜に青い空を見ることができ、かつあまり有名ではない観光スポットを探して観光しようと考えついた。調べてみるとボラカイ島というところが上記の条件に合致した。さっそく研修生の中で知り合った友人3名と観光の計画を立てて向かうことにした。

その当日もスラム街と同様に虚偽の申請をしてトライシクルを1台呼んでバス停に向かう。このボラカイ島は首都マニラから少し離れており到着するまでにトライシクル2回, 長距離バス1回乗らなければい行けず到着するまでに1時間30分かかった。トライシクルやバスに揺られボラカイ島へ行くための停船場に到着した。その停船場の受付にボラカイ島に行く方法を尋ねたところ、当日ガイドを1人雇う必要があるらしい。そこそこ値は張ったがここまで来て、ボラカイ島に行かないのは目的それ自体を否定してしまうので仕方なくガイドを1日雇い観光案内をしてもらった。

受付からガイドを案内され彼が所有する船に乗り込む。船は縦長でフェリーにエンジンを搭載したすこしばかり改造されたものだ。観光案内としてはボラカイ島の周りの島々を巡ってキリストの像を見たり、海でぱしゃぱしゃしたりするぐらいしかここに書き記すことがない。海が水色で下まで透き通っており上には青い空が広がっており、程よい南風になびかれながらリゾート観光という感じだ。ガイドは自分達の他にもおりその年齢層は小学生低学年から60代のおじいちゃんまで幅が広い。自分よりも幼い子供たちが笑いながらガイドをするのと学期毎に憂鬱になる自分と対比してフィリピン側の人生も悪くないと感じた。ガイドの人に子供たちが働いていることについてどう思うのか聞いたところ、自分は都会に出たことがなくこの島でずっとガイドとして生きて来たがその今の人生に満足しているそうだ。彼も幼い頃からガイドとして働いており、昼のガイドの仕事が入って来たらその収入で仲間と酒を飲んだり、仕事がなかったら魚を釣って焼いて食べたりして気長に過ごして来たそうだ。そのガイドの息子も孫も副業としてガイドをしているらしい。

そのガイドの話を聞きながら、小波と心地よい風に当たりながら、なぜか今までの肉体と精神を削ってでも頑張って来たのがバカらしく思えた。学業においては知的好奇心を満たすためだったり、将来自分がしたいことを成し遂げるために勉強して来たが、とりあえず勉強しておけば無難という考えも自分の無意識にあり、それも勉強をする一つの理由としてあった。昔のお金持ちというのは金などの物質などを多く所有している個人であったが、現代は知識が経済を産む時代だ。その知識を獲得するために現代人は日々勉学や業務に励んでいる。知識を積めば積むほど将来の自分や社会のためになる。なのでとりあえず勉強しておけば、無難であると考えるようになった。ボラカイ島に住む人々はそのような環境ではない。そこでは時間が遅く流れ気ままに過ごすのが日課だ。肉体や精神を多く削って学業に励む必要もなければ、社会での立ち位置やキャリア形成なども考える必要もない彼らを見てなぜか憂鬱になった。おそらく今この瞬間だけは自分が属していた社会を忘れられる居心地の良いこの場所が気に入ったのだろう。だが明日にはまた勉強の日々に戻る。フィリピンに来た当初の目的の中で療養とあったがこれで満たせたのだろうか。答えはNoだ。色々考えたおかげで体はリラックスできたのだが勉強が頭にあったからだ。そのせいか体感ではあるが観光も早く終わった。またバスに乗ってトライシクルに揺られ寄宿舎に戻って来た。行った後と前では心境に特に変化はなかった。あるとしたら肌がちょっと焼けたぐらいだった。自分の今後を考えるための時間を取れたためそう言った意味であればボラカイ島に行って良かったとその時はそう思った。

と色々な経験をこの2ヶ月ぐらいしたのだが、記述できるのはこれくらいで後は勉強三昧であった。

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